モンゴル帝国の歴史

モンゴル帝国の高麗侵攻と支配体制を解説

モンゴル帝国の高麗侵攻と支配体制を徹底解説

東アジアの歴史において、モンゴル帝国と朝鮮半島の関係は見逃せない重要なテーマです。

13世紀、チンギス・ハンの子孫たちはユーラシアをまたにかけた壮大な帝国を築き、その勢力は朝鮮半島にも及びました。

本記事では、モンゴル帝国が高麗に対して行った9度の侵攻をはじめ、その背後にある政治的・軍事的な狙いや、征服後の支配体制の変化に迫ります。

さらに、クビライ・カアンの日本遠征において、朝鮮半島が果たした戦略的な役割や、高麗がどのように自立を取り戻していったのかも詳しく解説しています。

読み進めることで、モンゴル帝国による影響がいかに長期にわたり朝鮮半島に残されたのかが、立体的に理解できるはずです。

なぜ朝鮮半島がこれほど執拗に狙われたのか?

その答えを、歴史の奥深さとともに探ってみませんか?

 

モンゴル帝国による朝鮮半島侵攻の背景とは

13世紀、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国は、朝鮮半島にもその支配の手を伸ばしました。

一見、遠く離れた地域に見える朝鮮半島ですが、実はモンゴルの東方政策において戦略的な要衝だったのです。

この章では、モンゴル帝国が高麗王朝をターゲットにした理由や、背景にある地政学的・軍事的な意図に焦点を当てて解説していきます。

単なる侵略ではなく、帝国の拡張と安定のために必要不可欠な行動であったことが、さまざまな史料から読み取れます。

朝鮮半島に対するモンゴルの動きは、単独ではなく中国大陸や日本侵攻とも密接に結びついていました。

この章では、そうした大局的な視点から、モンゴル帝国の対高麗戦略の背景を探っていきましょう。

遊牧帝国モンゴルの拡大戦略と東アジア政策

モンゴル帝国は、その成立初期から征服による版図拡大を主要な政策として進めてきました。

チンギス・ハンの下で中央アジア・西アジアへと進出したモンゴル軍は、東アジア方面にも積極的に進軍します。

朝鮮半島は中国(当時の金・南宋)との通商路に接し、軍事的にも重要な位置にありました。

そのため、帝国が東方の安定を図るうえで、朝鮮半島の制圧は避けて通れない目標となったのです。

また、半島の港湾は海軍の整備や補給に適しており、後の元寇にも活用されました。

このように、地理的・軍事的な観点からも、朝鮮半島はモンゴルの戦略に組み込まれていったのです。

高麗王朝とモンゴル帝国の最初の接触

モンゴルと高麗の最初の接点は、1240年代初頭に始まったモンゴル西征の一環でした。

当初、高麗は金朝の滅亡後も自立を保っていましたが、北方から接近するモンゴル軍との対立が避けられなくなります。

第一次侵攻では開京(現在の開城)が陥落し、王朝は首都を江華島へと移転して抗戦を続けました。

この一連の出来事は、高麗の外交姿勢や内部体制に大きな影響を与える契機となります。

一方、モンゴル側にとっても、高麗の完全制圧は容易ではなく、数次にわたる侵攻が必要となりました。

この小見出しでは、両者の初期の緊張と駆け引きについて、戦略的背景とともに掘り下げていきます。

チンギス・ハンからクビライ・カアンへ続く征服の系譜

モンゴル帝国の拡張は、チンギス・ハンの死後も加速していきます。

その子オゴデイ・カアンの時代には中央アジアとロシアを、さらにモンケとクビライ・カアンの時代には南宋や日本を狙う大規模遠征が進められました。

朝鮮半島侵攻は、こうした征服戦略の一環として位置付けられ、クビライ・カアンの下で本格化していきます。

特にクビライは、元朝の設立後に高麗王室と婚姻関係を結び、名実ともに朝鮮半島を支配下に置く体制を築きました。

この背景には、単なる軍事的勝利だけでなく、政治的安定と中国南部攻略のための前線基地としての利用価値もあったのです。

 

9回にわたるモンゴルの高麗侵攻とその経過

モンゴル帝国が高麗に対して行った侵攻は、単なる一度の戦闘にとどまらず、9回にもわたる大規模な戦争が展開されました。

これらの侵攻は、モンゴル帝国の強大な軍事力を示すとともに、当時の高麗王朝がいかにしてその存続を懸けて戦ったのかを物語っています。

侵攻はしばしば反復的であり、高麗王朝もただ単に戦うのではなく、時には協定を結ぶこともありました。

しかし、その後もモンゴルの圧力は続き、高麗は最終的にモンゴルの支配下に置かれることになります。

この章では、9回にわたるモンゴルの侵攻の経過を詳しく追い、その戦闘の背後にある戦略や政治的な意図を明らかにしていきます。

第一次~第四次侵攻:開京陥落と江華島遷都

モンゴル帝国が高麗に対して最初に行った侵攻は、1240年代初頭に始まります。

最初の侵攻では、高麗の首都である開京(現在の開城)が陥落し、その後高麗王朝は江華島に遷都することを余儀なくされました。

この時、モンゴルは高麗の王室とその臣下に強硬な戦術を取るとともに、王族に対して数度の屈服を要求しました。

開京の陥落と遷都は、高麗王朝にとって衝撃的な出来事であり、その後の政治的・軍事的な対応に大きな影響を与えました。

モンゴル軍はその後も高麗を攻撃し続け、次第に支配を強化していきますが、高麗は依然として抵抗を続けました。

第五次~第六次侵攻:高麗の徹底抗戦と妥協

第五次から第六次の侵攻において、高麗はモンゴルの圧力に対し徹底的に抗戦しましたが、次第にモンゴル側の要求に応じる形で妥協せざるを得なくなりました。

特に、モンゴルの要求によって高麗は軍の再編成や、貢納金の増加を受け入れなければならなかったことが、高麗の政治体制に深刻な影響を与えました。

また、モンゴルの支配下においては、次第に高麗の独立性が失われ、帝国の軍事的・行政的な影響が強まっていきました。

この時期、モンゴル軍は高麗の抵抗を物理的に圧倒し、戦闘では勝利を収めましたが、政治的には高麗王朝との妥協と連携を余儀なくされていました。

第七次~第九次侵攻:ジャライルタイ軍と崔氏政権の崩壊

第七次から第九次の侵攻では、モンゴルはより大規模な軍を投入し、戦争はさらに激化しました。

この時期、ジャライルタイ軍が高麗に侵攻し、崔氏政権は崩壊の危機に直面します。

戦闘の結果、モンゴルは高麗の中心地に深く侵入し、その支配をさらに強化することに成功しました。

高麗の王室は形だけの存在となり、実質的な支配権はモンゴル側に握られていきます。

この期間を通じて、高麗は一時的に独立を回復する兆しを見せましたが、モンゴル帝国の力強い支配がそれを上回り、最終的には高麗王朝の完全な服従へと繋がりました。

 

モンゴル帝国による朝鮮半島支配の実態

モンゴル帝国は、高麗を征服した後、単なる軍事的支配だけでなく、政治的、経済的、文化的な影響力を及ぼし、朝鮮半島に対する強固な支配体制を築きました。

この章では、モンゴル帝国の支配下における高麗の実態を探り、モンゴルがどのようにしてその権力を行使し、統治を行ったのかを解説します。

また、高麗王朝がどのようにモンゴルの支配に対応し、時には協力し、時には反発を試みたのかについても考察します。

征東行省の設置と政治的従属体制

モンゴル帝国は、征服後、朝鮮半島を直接支配するために征東行省を設置しました。

征東行省は、高麗におけるモンゴルの直轄支配を確立し、地方行政や軍事面でモンゴル帝国の政策が強く影響する体制を作り上げました。

この制度により、モンゴル帝国は高麗の王室に対して、形式的には高麗の独立を認めつつも、実質的にはその支配権を完全に掌握しました。

また、高麗王朝は名目上独立しているものの、モンゴルの支配に従う義務を負うこととなり、重要な決定権はモンゴル側に委ねられました。

さらに、モンゴルは高麗の王室と婚姻関係を結び、血縁による結びつきを強化することによって支配を深めました。

このような支配体制の確立により、モンゴルは高麗を完全に自分の支配下に置き、従属的な関係が続くこととなります。

高麗王室とモンゴル皇室の婚姻政策

モンゴル帝国は、高麗王室との婚姻関係を結ぶことで、その支配を強化し、政治的安定を図ろうとしました。

クビライ・カアンは、高麗王室との婚姻によって、モンゴルと高麗の関係を一層密接なものにしました。

この婚姻政策は、単なる結婚を超えて、政治的な連携を意味し、高麗王朝の忠誠を確実にするための手段でした。

モンゴルの支配下では、王室の結びつきが強化され、モンゴル皇室と高麗王室の間で親密な関係が築かれました。

その結果、高麗の王室は形式的には独立を保ちながらも、実質的にはモンゴルの影響を強く受けるようになりました。

婚姻政策は、モンゴル帝国が高麗を支配するための重要な手段であり、支配体制の強化に貢献したと言えるでしょう。

耽羅島の直轄領化と現地支配の象徴

モンゴル帝国は、高麗の支配地域だけでなく、耽羅島(現在の済州島)をもその直轄領として取り込みました。

耽羅島は、戦略的に重要な位置にあり、モンゴル帝国にとっては南方における軍事的拠点となり得る場所でした。

モンゴルの支配を象徴するこの地域の直轄化は、単なる軍事的意図だけでなく、経済的・政治的な支配を強化する手段としても機能しました。

モンゴル帝国は、耽羅島を自らの支配下に置き、島内の統治を強化することで、その勢力を確固たるものにしました。

耽羅島の直轄領化は、モンゴル帝国が高麗王朝の支配を強化するための重要なステップとなり、その後の支配体制の確立に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

 

クビライ・カアンと日本遠征における朝鮮半島の役割

モンゴル帝国の支配下にあった高麗は、クビライ・カアンの下でさらにその地位が強化されました。

特に、クビライ・カアンによる日本遠征(元寇)では、朝鮮半島が戦略的な拠点として重要な役割を果たしました。

この章では、元寇を通じて朝鮮半島がどのように関与し、その影響をどのように受けたのかについて詳しく掘り下げていきます。

クビライ・カアンの遠征計画と高麗王朝の関与について、具体的な視点から分析していきましょう。

忠烈王の親モンゴル政策と元寇の兵站基地

クビライ・カアンが日本を侵略しようとした際、朝鮮半島はその兵站基地として不可欠な役割を果たしました。

忠烈王は、モンゴルの支配を受け入れ、モンゴル側の軍事的な要請に協力する方針を採りました。

高麗王朝は、元寇に必要な兵力や物資の供給、艦船の建造など、モンゴルの遠征を支えるために積極的に協力しました。

特に、高麗は元寇の遠征軍にとって重要な軍事基地となり、朝鮮半島の港は出発点となりました。

高麗の役割は、単に物資供給にとどまらず、元寇の成功を支えるための不可欠な後方支援の要となったのです。

高麗軍の徴発と艦船建造の負担

元寇における朝鮮半島の重要な貢献は、兵力や艦船の提供にありました。

モンゴル帝国は、元寇の戦力を増強するために、高麗王朝に対し大量の兵士を徴発し、艦船の建造を強制しました。

この負担は、当時の高麗王朝にとって重大なものであり、多くの資源が消耗されました。

高麗王朝は、モンゴルの要求に応じて艦船を建造し、その後、元寇の侵攻に使用されたのです。

この協力がなければ、元寇の遠征は成功しなかったかもしれません。

高麗の協力が、元寇の海上戦力を強化し、日本侵攻を実現可能にした重要な要因となったことは間違いありません。

元寇敗北と朝鮮半島への影響

元寇は最終的に日本の防衛線に阻まれ、モンゴル帝国にとって大きな敗北となりました。

しかし、元寇の影響は朝鮮半島にも大きく及びました。

モンゴルの侵攻失敗後、高麗は依然としてモンゴルの支配下にあり、元帝国との関係は強化されましたが、同時に高麗内で反モンゴルの気運が高まることとなりました。

元寇の失敗により、高麗はモンゴル帝国からの更なる圧力を受け、政治的に困難な時期を迎えることとなります。

 

モンゴル支配の終焉と高麗の自立回復

モンゴル帝国による高麗の支配は、元寇の失敗を経ても続きましたが、最終的に高麗王朝はその独立を取り戻すことができました。

モンゴル帝国の衰退とともに、朝鮮半島におけるモンゴルの影響力も徐々に弱まり、また高麗内部での変化がその後の政治的自立に繋がりました。

この記事では、モンゴル帝国の支配がどのように終わり、高麗がどのように自立を回復していったのかを掘り下げていきます。

さらに、高麗王朝の独立回復の過程とその後の歴史に与えた影響についても考察します。

三別抄の乱と反モンゴル抵抗の終結

三別抄の乱は、高麗王朝がモンゴル帝国の支配に対抗した重要な出来事です。

反モンゴル勢力は、モンゴルの圧力に対する反発を示し、最終的にモンゴルの支配体制に大きな打撃を与えました。

この乱は、モンゴルの支配から脱却しようとする高麗王朝とその国民の意志を象徴するものです。

モンゴル側の軍事力は強大でしたが、反モンゴルの勢力が結集することで、モンゴル支配を揺るがせることができました。

最終的にモンゴルは、反乱の沈静化に努め、高麗王朝に対してより柔軟な統治を余儀なくされました。

この反乱が高麗の自立回復への道を開く一歩となり、その後の独立回復のための基盤が築かれました。

忠宣王以降のモンゴル支配からの脱却

忠宣王の治世は、モンゴル支配からの脱却に向けた重要な転機でした。

忠宣王は、モンゴルによる支配体制を終わらせ、高麗王朝を再建するための改革を進めました。

彼の治世下で、高麗は政治的な独立を回復し、モンゴルからの影響力を排除するためにさまざまな改革が行われました。

その一環として、忠宣王は王権の強化を図り、内政の安定を目指しました。

また、モンゴルの制度を排除し、独自の政治体制を再構築することで、高麗王朝の再生を実現しました。

忠宣王の改革は、モンゴルの支配から脱却し、高麗の自立を果たすための重要なステップとなりました。

高麗滅亡とモンゴル帝国の影響の残響

高麗王朝は、最終的にモンゴル帝国の影響を受けた影響から完全には脱却できませんでした。

モンゴルの支配は、高麗王朝に深い影響を与え、政治的、経済的な構造を変えました。

特に、モンゴルとの外交・貿易関係や文化的影響は、元朝滅亡後も残り続けました。

高麗王朝はモンゴル支配からの解放を果たしましたが、その後も元朝の影響を完全には排除できませんでした。

元朝滅亡後、高麗は自立を回復するものの、モンゴルから受けた影響は社会や政治に色濃く残り、朝鮮王朝の成立に至る過程にも大きな影響を与えました。

このように、高麗王朝の滅亡はモンゴル帝国の影響を完全に消すことはできず、その遺産は後世にまで続いていったのです。

 

まとめ

この記事では、モンゴル帝国による朝鮮半島への侵攻とその支配、そして高麗の自立回復までの一連の流れを丁寧に解説してきました。

はじめに取り上げたのは、モンゴルがなぜ朝鮮半島を標的としたのかという背景です。

遊牧帝国として拡大を続けていたモンゴルにとって、東アジアの要衝である高麗は戦略的に見逃せない存在でした。

続いて、9回にも及ぶモンゴルの高麗侵攻。

その経過を追うことで、単なる征服だけではなく、交渉や妥協、そして高麗内部の政治的変化が複雑に絡み合っていたことが見えてきます。

さらに、征東行省の設置や婚姻政策、済州島の直轄領化など、モンゴル帝国が高麗をどのように統治していったのか。

その支配体制の実態にも迫りました。

クビライ・カアンの日本遠征では、高麗が兵站の拠点としてどれほど重要な役割を担わされたかが明らかになります。

高麗の協力は避けられず、莫大な負担が課されることとなりました。

やがて元寇の失敗や帝国の衰退を背景に、高麗内部では自立の動きが強まっていきます。

三別抄の乱や忠宣王の改革が進む中、高麗王朝は徐々に独立を取り戻していきました。

こうして、高麗はモンゴルの支配を脱し、独自の体制を再構築するに至ります。

ただし、完全に影響が消えたわけではなく、その余韻は後の朝鮮王朝にまで受け継がれていくことになります。

この記事を通じて、モンゴル帝国が朝鮮半島に与えた多面的な影響を立体的に捉えることができたのではないでしょうか。

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